薬害エイズはなぜおきたか

 エイズ患者が初めて発見されたのは、1981年でアメリカであった。この時は、この病気の原因は不明であったが、82年になって、血友病患者のエイズ症例の報告があいつぐと、血液を介して広がる新種の病気ではないかと考えられるようになる。
83年前後には、ウイルスこそ発見されていないものの、アメリカの政府機関からエイズが血液製剤を通して感染する確率が高く、非加熱の血液製剤の使用は危険であるという報告が頻繁に出されていた。そして83年3月には、加熱しウイルスを殺した加熱血液製剤の製造を認可した。
こうしたアメリカの動きを受けて、ヨーロッパやカナダなどの先進各国では、HIV感染の広がりを防ぐため、アメリカからの血しょうの輸入を禁止し、非加熱から加熱製剤への転換を83年から84年にかけて順次行った。

危険性を知りながら放置した日本

 ところが日本の厚生省が加熱製剤の製造を承認したのは、やっと85年7月のことで、アメリカより2年4ヶ月も遅れてからのことである。しかも厚生省は汚染された非加熱製剤の回収を支持しないまま放置し、製薬会社は全部在庫を処分するまで、加熱製剤には転換しないで患者に使い続けさせた。
83年には日本でも血友病友の会が、加熱した血液製剤の早期使用実現を厚生省に要望したにもかかわらず、その声は無視されつづけたのである。
その結果、アメリカからの輸入血液製剤によってエイズ感染は広がり、日本の血友病患者の約4割にあたる2000人近くがHIVに感染するという薬害被害をもたらしたのである。もし、83年の時点で血液製剤の切り替えが行われていたら約1000人の人が感染しないですんだといわれる。

厚生省の責任

 厚生省は、アメリカの情報を知り、非加熱製剤の危険性を十分認識し、83年6月「エイズ研究班」(エイズの実態把握に関する研究班=班長阿部英・帝京大学教授)を設置した。そして、83年7月4日、加熱製剤の緊急輸入を検討した。しかし、それからわずか1週間後の7月11日には、加熱製剤の輸入を見送り、危険な非加熱製剤の継続を決めるという180度の政策転換を行ったのである。
非加熱製剤の継続が決められたのは、非加熱製剤を中止することで、加熱製剤の開発技術がなかった国内の製薬会社に打撃を与えることに「配慮」したためだったことが、96年厚生省から「発見」された資料であきらかにされた。その背景には、企業と官僚の癒着があり、製薬会社に天下った元厚生省幹部や厚生省上層部の働きかけの疑惑がある。